アイボリー  

 

 

ありがとう。青が溢れ出した月に魅せられて、いくつもの夜をさまよった。裏庭でモンシロチョウを見たのはいつの日だったか。世界の終わりも夢見ることなく、みずうみに佇み続けることもなく、シニカルに笑うこともなくなった。花はさらさらと散り、わたしは新たな季節を迎えました。

さようなら。愛しい人たち。

 

 ?

 

「この人、怖い」って思ったら静かに静かに全力で逃げる。逃げていることを気づかれないように、それこそひっそりと忍び足で気持ちを遥か遠くに持って行く。体は逃げられないとしても、こころは全力で逃げて、自分を守る。

「わたし、なんにも考えてないからさー」と言う人を羨んだ時期があった。そう言いながら、暗に考えすぎるわたしを非難しているような気が勝手にしていて、気持ちが落ちる感じがした。考えたって何にもならない。苦しいだけかもしれない。だけど考えることをやめられない。もう理屈だとか意志だとか関係なく、そういうふうにしか動かない。眠れなくて中途覚醒とか起こしても、思考は変えられない。変えられないから、そんな自分と向き合って行くしかない。目を覚ましたままで、じっとしているしかない。

 

 

 

いなくなった人の歳を確認する癖が抜けない。えっとあの人は、もう30になったか。どうだろう。わたしがあーだから、それから逆算して、、、えっと、そうだね、ああもうそのくらいだね。そして、あの子は23だよね、確か。もう別人かな。わたしがよく知っていた彼ではないだろうな。ほんと、若いって素敵だ。人生の中でほんの一瞬と言っていいくらいの期間。妙に息苦しかったり、ぼんやりと悲しかったり、なんとなく理由もなく寂しかったりするんだけど、不意にぐっとくるようなこころの揺れがあったり、どうしようもなく笑えたりする。あんなに意味もなく大声で話したり、誰かのせいで泣けたりできるのは、この先はないだろう。もう戻れるとしても戻りたくはないのだけれど、その年代の渦中にいる誰かの話を聞くのは好きだ。

なりたい自分なんて言えるわけないじゃないですか。なんてかつて言われたこともあったけれど、理想を言うのはかっこ悪いことじゃないよ。理想を知られるのは恥ずかしいことじゃないよ。理想を演じていたとしても、完璧に演じられれば、それはその人自身だと思うよ。

 

 

シンジの言葉が好きだった。もちろん今も好きだけれど、もう触れられないから過去形にしておく。もうどこにもいないんだよね。忘れたくないから、時々思い出して使う。許してくれるよね。

確かにいた。もう誰とも記憶を確認し合えないけれど、わたしが覚えている限り、あれらの言葉は今もしっかり生きている。だから時々日にあてたくなる。許可は得られないとわかっている。でも、何度でも言う、使っていいよね。

 

 

そう、きっと、わたしたちはここにある。何を黄色にするかは決められないとしても、あの夏の色を忘れてしまっていても、こころは今もここにあると思いたい。

低い声を響かせるように出すことができるようになった。過ぎた夏を数え直してばかりいる日々ではあるけれど、見つからないものはもう無理に見つけない。

閉じてしまったページの前で立ち止まってばかりいても仕方ない。誰もいない部屋を尋ねるようなことをしても、何も得られない。欲しかったはずのものの裏側までも見てしまった。どこで終わりにするかの判断は難しい。決められないでふらふら流れていたら、見なくてよかったはずの裏側までも見てしまって、もう先に進めなくなった。冒険も実験も終わった。

そっとなでてバイバイ。また明日はないから、ここに置いて行く。

 

 

わたしと話すことでその人に勢いがつけばいいと思った。誰かと話すための前段階の助走みたいなものに、わたしがなれればいいと。実際のところはわからないけれど、特に必要でもない、言ってしまえばどうでもいいことを話してくる人がいて、その人のことは好きだから、好きというか信用しているから、いつでもあたたかな言葉を返せる。傍から見てとても親密な会話をしているように見える。親しいことは親しいのは間違いないのだけれど、二人の関係性の発展に何ら寄与しない会話ばかりが続く。会話のための会話のように。いつか真に彼が話したいだろう誰かのための練習のような感じで。そんな5年間だったんだろうな。もう連絡が来なくなったことを寂しいと思うわたしもいて、それはそれでいいんじゃないと思うわたしもいて、かえってその人の存在が見えないからこそ、好きな距離で自由な愛を生きられる。

わたしがしたようなことをいつか彼が誰かにしてあげられるようになってくれたら。いや、してあげるんだろうなって思いたい。

 

*

 

気をきかせていいことをしてくれる人が、なぜだか一番に責められる。いいひとだから、人がやりたがらないことをかって出てくれて、大抵はそういうことはリスクや困難を伴うことだから、失敗することも多い。その時点で、いいことだったはずのことは都合の悪いことになる。

気なんてきかなくていい。あのひとはよく気がつく、って言われたら、気のきかない自分がいたたまれなく感じられる。そんなこと気にしない。あのひとはあのひと。わたしはわたしの価値観で生きていく、なんてかっこのいいことは言えない。認められたいって思ってしまう限りは。

 

 

 *

 

騙されていたことがわかって、なーんだって笑っていられたら。それがたとえ苦笑いであったとしても。騙すつもりはなかった、最終的にこういう結果になってしまったけれど、けして騙すつもりはなかった。そう言われて涙がこみ上げてきたのはいつの日だったか。自分一人の力で立っていなかった。そのひとの存在で、日々をうまく回していた。それが愚かなことだと、気づいてしまいたくなかった。

嘘を言われていても気にしないようにしていた。本当は嘘を聞くのはつらかった。嘘をついてまでそのひとは付き合っていたかったんだよ。誰かにそう言われて妙に納得した。わたしがそのひとに嘘をつかせていた。知っていて止めなかった。信じた振りをした。わたしも嘘を返した。ついには、ついた嘘の出口がどこにもなくなって破綻した。 

 

 

*

 

誰だって自分の心のことには興味がある。日常ではけして語られることのない内面。誰かに代わりに語ってもらえたらどんなに楽か。本当に気になっている根源的なことは、案外と口には出せず、どうでもいいようなことをつらつらと言葉にする。言える環境にないから、なんて簡単に思ってしまうのは、ただ甘えているだけなのだ。言える相手がいないなんて言ってしまうのはたやすい。いないなら探そうとしないと。探すというか見極めるというのか。いるものいらないもの。いらないものを排除したら、ひとりぼっちになる?わからない。いるものがますます鮮明に見えてくるかもしれない。

本当はこういう話がしたかった。そんなふうに相手に言われたら、はっとして少し涙ぐむかもしれない。見つけてくれてありがとう。

 

 *

 

冷めた頭でわかっていれば笑っていられる。互いにわかり合う必要はない。わたしがわかっていることが一番大事なのだ。よく知らないことだからわからないと言うのは、きっと誠実な態度なのだろう。けれど、よくわからないなと言われてしまったら、それ以上語れないのが大方のひとではないだろうか。わからないことは、相手から学ぶような気持ちで話を聞いていたいと思う。

この話はNGだよね、って言われないようなひとになれれば、といつも思っている。何を聞いても、涼しい顔でいられたら、それは実際には途方もなく難しいことであったとしても、そうでありたいと思っている。その裏に企みや悪意が隠されていなければ、それを見抜くのは大変なことだけれど、わたしには何を話してくれてもいいよ。私が判断するから。

 

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便利屋さんのお話を読んでいる。今時こんな無防備な関係が存在するのかと、疑わしくも憧れながら読んでいる。かつてのわたしもかなり無防備というか思いつめていた。知らないひとと、ふっとつながれるくらい怖いもの知らずだったあの頃。

かなり思いつめていた。だから怖くなかった。正気に戻れば、実感のわかないことばかり。かすんでいく記憶。たまに思い出すことはあるけれど、もうつながれないとわかっているから、冷静でいられる。

話は戻り、便利屋さん。ただじゃないから安心できる好意。ただで手に入る誰かの好意はきっといつか疑ってしまう。契約があるってことは、約束があるってことは、ただそれだけで信頼できたり安心できたりするのだろう。終わるのも契約が切れて終わりなら、少しは救われる。さようならが急にやってきて、驚かされたり打ちのめされたりもしない。

 

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忙しく過ごしているような気分でいる。予定ややるべきことを頭の片隅に置いておくことは、あまり好きではないのに、このすっきりしない感じは重苦しいようで、地につながれているような、妙な安心感もある。普通のひとの人生を送っていたい。どこかでちょっと違って来てしまったと思っているから、少しずつ少しずつ軌道修正。うまく会話に潜り込めたら、この人生も悪くないなと思えてくる。ありがとう。話しかけに答えてくれる全ての人に感謝。

 

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 自由でいいんじゃないですか、個人の判断でいいと思いますよ。口にしてみると、言葉の冷たさ、そっけなさのわりにいった本人はほっとしている。判断に困ることは、乾いた気持ちで考えると楽になる。しがらみというのは、結局は自分で作り出しているものなのだ。想いは時が流してくれる。また浮かび上がってきたとしても、してきたこと、しなかったことは取り返しがつかないとわかっているから、冷めて、そうだよねってうなづくしかない。過去は素敵だ。過去になってしまうと、たいがいのものが許せてしまう。

社会の中で日々生きていると、いろいろな選択を迫られる。それが煩わしく苦しい時がほとんどだ。煩雑だと感じるのに、人を避けないのはどうしたことだろう。ただただ気持ちを話したい時がある。その時ふと思ったことや、前から気になっていたこと、自分から話を始めるのは好きだ。やわらかく受け止めてくれる人がいると、たくさん話したくなる。逆に、少し気のおける相手の厳しい言葉が返ってくる瞬間の緊張も好きだ。だから、誰かいないと、やっぱり困る。

 

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消えた。すべてのあの頃のメールが消えていった。完全に消えてしまう前に読み返そうかとも思ったけれど、途中で恐ろしくなってやめた。彼は今でも小説を書いているのだろうか。往復書簡のようなやり取りを繰り返していた。勝手にそう思っていた。特別であればそれに越したことはないけれど、今はもうあれらの日々に特別を求めていない。ありふれたこととは違うかもしれないけれど、誰の身にも起こり得ることではないかもしれないけれど、ただそれがどうしたはずみにかわたしの身に起こっただけのことなのだ。

取り戻せないものだから、思い出すとせつない。無理に思い出さなくていいよ、無理に悲しがる必要はない。そう語りかける自分がいる。長い間聴けなかったスピッツのあのCDが聞けるようになった。聴きたい音楽がなくなってしまった今、前に好きだったものを取り戻すことにも気持ちを向けようと思った。ともさかりえの「木蓮のクリーム」に心がやけに揺さぶられる。こんな歌をしみるような声で歌える彼女は、きっと幸福体質ではないだろうと思った。

 

 

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カエというHNは加恵と書くと知って距離が縮まったような錯覚を起こせた。遠い昔のこと。シンジは、まことであり淳でもある。シンジで知り合ったけれど、最後は淳さんで終わった。シンジは18歳で死んだけれど、淳さんはきっと今もどこかで生きているはずだ。なんだか古いMDをなんとなく聴いてみたら、こっこの歌が流れて、それは「ポロメリア」だったり「あなたへの月」だったりしたから、こんなことを思い出した。

間違いを犯したお姫様は結局どうなったのか。淳さんとはたくさんたくさん話したけれど、聞きたかったのはこのことだけだったのかもしれない。いつか虹は消えてしまうからと歌う、、、そうだね、本当にそうだったね。

 

 

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うまく言葉を選べない時はしゃべらなければいいのだろう。物事を前にして、とりあえず何かを口にするという癖はいっかな直らない。いや、もう変えようとは思わないのかもしれない。同じような傾向を持つ人とはきっとわかりあえる。そういう人は反応が素早い。頭の回転がいいとそれは美点にも長所になり得るだろうけれど、そうでなくただぽんと不用意な言葉が飛び出してしまった場合は、恐ろしい後悔が待っている。

 

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わたしにはもう詩は必要ないのだろうか。あの場所で出会ったあれらの詩。あの頃はいつでも触れることが出来るから、そこに行けば必ず会えるから、特にコピーして手元に置くことはしなかった。あの場所がなくなるなんて、そして十年の月日が流れ、今それを懐かしく思い出しているなんて、あの頃は思いもしなかった。

青が溢れ出した月。この言葉を知っているひとは、今のわたしの周りにはもう誰もいない。いやあの頃でさえわたしの周りには誰もいなかった、わたしだけの場所。わたしだけが出会える言葉たち、そこに集う人たち。友達でもなく仲間でもなく、知人ですらありえなかったあれらの人たちと、一瞬だけでも触れ合えたと思えた、奇妙なとりとめもなく続いていた日々。

わたしが今もこうして文章を綴れているのは、あの場所を忘れていないから。探してももう見つからない。完全に消えてしまった。だからわたしの中に永遠に置いておく。

 

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遠ざかってくれたことにほっとしている。願えば会えないまでも声だけは聞けると思っていた頃が遥か彼方。ありがとう。ここまでわたしを引き上げてくれものすべてに静かに頭を下げる。どうかしていたんだと単純に片付けられる事柄ではない。今ではあれらのものたちは不可解であると同時に、必然であり、わたしなりの真実だったのだと思う。つい5、6年前のことでも懐かしくて心が揺れるのに、また戻れるかもしれないとふと思ってしまうのに、あれらの淡色でいてくっきりとした輪郭を持った日々を完全に捨て去ることはできないのだと思う。

あの時。そんなことしたらその子のためにならないよ。そう言って淳さんは去って行った。わかっていた。わかっていてもやめられなかった。後に自分の意思で遠ざかれた時、わたしは前と違うわたしになってしまっていた。淳さんの言葉に頼らずに生きていけるようになって、その子と淳さんと二人を失った。

もうグレイプバインもCoccoも聴かなくなった。

 

 

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夏が来てしまった。べたっと素肌に張りついて、まとわりついて、どこに行くのも一緒の、うっとうしいような、ほっとするような夏が、またやって来てしまった。

 

 

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結局は、自制の心を持つひととしか長くはいられないのだと思う。誰かの感情や気まぐれに付き合わされるのに寛容でいられるほど、わたしはタフではない。親切心や譲る心は必要に備えて用意しているつもりだけれど、それらを取り出すのは本意ではない。もともとのわたしはたいして福祉の精神はない。ただ目の前にいる誰かの気持ちを捨てていけないだけなのだ。求められなければきっとやさしさを見せることもしないのだろうと思う。

ただ誰かの行動の先にあるものにはなりたいとは思う。わたしがいるから休まずにここに来る。わたしが見ているからやるべき課題を黙々とやる。わたしのことが気になるからふとした時に微笑んでくれる。好きでいてくれたらもちろん嬉しいけれど、わたしがきっかけでひとを思いやれるひとになってくれることの方がもっと嬉しいし、つきつめていくとそれこそがわたしの望むことだ。

 

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気づくとやたらと研究熱心な行動をしている。新しいことを始めて、その成果よりも勉強熱心ぶりを褒められる。いろいろとやってくれるんで助かるというようなことを言われて、なんだか恐ろしさを感じるようにもなった。知ることはやはり楽しい。そして少し苦しい。新しい知識を蓄えるのは、さらにそれを活用していくことは、大変だけれどどこかわくわくする。気分が高揚する。難しかったり面倒だったりする作業も、裏を返してみれば達成することの気持ちよさがある。この活動にわたしを引き入れてくれた彼女は、これをマスターするのは大変ですねと言うわたしに、でも面白いと思いませんか?と返した。前向きなひとは努力をいとわない。そして責任というものの意味を知っている。簡単ではないからやすやすとやめることもできない。これをやる人は少ないかもしれない。ゲスト会員で少しできることだけお手伝いしようかと思っていたのだけれど、結局はこの場所に長くいるのかも知れない。

 

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何も特別に守るものがないからなのだろう、どこかしらに顔をちょこんと出して、そろそろと自分の存在を示したくなる。今はそういう時期。変わろうとしているのではなくて、何かを始めたいと思っている、漠然とではあるけれどひととつながりたいと思っているのかもしれない。そんなに濃い感情はいらないから、ただどこかで誰かしらに求められていたい。少しだけ頼られていたい。

空気公団を急に聞きたくなったのは、気持ちをふわふわにしたくなったから。音楽によってつくり出されるやわらかな感情が好き。けれど小説からはふわふわをもらおうと思わない。中沢けいを読み直して、ああ恐ろしいと思ってしまう。感情が固まり過ぎて息苦しい。たいしてひどいことをされたわけではない。よくある男女のもつれた感情の話。そう思って読めばそうなのだけれど、一人のひとに向けての感情の暗い高まりが恐ろしいものを呼んで来る。出来事よりもそれを感じる側の気持ちの揺れが怖い場所に連れていく。      

 

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少しお休みしてもいいんだし。そう口にすることで楽になったのは私だったのかもしれない。彼の涙を止めるのに言葉を費やすことの無意味さをひしひしと感じながらも、どうにも黙ることができなかった。どんな慰めの言葉も彼を追い詰めているような気がして、でもしゃべることをやめられなかった。沈黙することは拷問に近い、わたしにとっては。覚える気のないものを延々教え続けるのはつらい。はっきりと覚える気がないと言ってくれたことに感謝さえした。いろいろな想いはあるでしょう。それでも続けたいですと言ってくれたことで、わたしはもういいと思えた。先生一人が楽しくても仕方ないじゃない。そう言って苦笑するしかなくても。

というわけで、しばらく指導はお休みになった。また気持ちが向いたら再開することになった。このままその日が二度と来なくて構わないと思えた。楽に行くことにした。

 

  

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せんとくんって知ってる?せんとくんは平城京のキャラクターなんだよ。さて、せんとくんは人間ですか?鹿ですか?だんだんとこんなどうでもいい話をしたくなってくる。それに真面目に答えてくれる彼も彼だけれど。人間です。そうですね、人間の頭に鹿の角が生えているんだよね。お正月明けの新年初の指導日。心配になりながらも自宅に伺って、珍しくお父さんに出迎えられてはっとして、二週間会わないだけでなんとなく距離を感じながらも、手作りの計算問題を解かせる。ねえ、いい加減覚えてよねとぼやきながら、いっこうに正負の数のルールを覚えてくれない彼をさてどうしたものかと思う。覚える気がないのかな。本人は忘れたと言うけれど、感覚でわかることには抵抗がなくすっと入るようだ。勉強なんて機械的に覚えなきゃ、たかが十三年くらいの年月で彼が感覚でわかることなんてたかが知れてる。いかに手順を覚えるか。そこに意味など見つけようとせず、いかに機械に徹せられるか。それで決まるとまで思ってしまう。

前に教えていた野球部の彼の弟さんなのだけど、お兄ちゃんに良く似た風貌に名前を間違えそうになる。ほんとにお兄ちゃんを小さくしたような感じなので、最初に会ったときは単純に懐かしくて微笑ましくなった。中身はかなり違うようだけれど。人見知りなのか打ち解けないだけなのか、よく分からない。ただ最初の日に続けると言ったのでそれに従った。本人の意思。わたしはそれに寄り添うだけ

 

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それは先生の判断です。そう言えるようになったのは、わたしが強くなったからだろうか。戦いに発展しないように、相手の意欲をそぐ。理屈の通用しない相手と深く言い争ってはならない。子ども相手に何を真剣になっているのか、と思う人は思えばいい。素直でない子どもこそ恐ろしい生き物はいない。いろいろな手法を試してみて、最後に怖いけれど面白い。そう思えるようになったら、心臓のどきどきも少しはおさまるというものだ。

昨年の11月の終わりから、新しく中学生をみることになった。落ち着いて見えるけれどあわてているようでもあり、まだ固まっているのかな。リラックス。わたしもリラックス。

 

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感傷に浸っているのだとしても悲しいわけではない。好きだった、夢に見ていたあのひとが消えてなくなってしまったことが、なぜだかわたしを落ち着かせる。交わした会話も思い出して温めることをやめてしまった。すべては通過点。また会えたとしても、初めて会うような顔で会えるかもしれない。

 

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あれらの言葉たちはどこへ行ってしまったのか。かつてわたしをあんなにも震わせた数々の文章たち。書き手たち。あの頃の彼らはもういないとはわかっていながら、またあれらの日々懐かしんでしまう。わたしも変わってしまっているのだから、ひとの変化や移り変わりを悲しんだり嘆いたりしてはいけないとわかっていながら、性懲りもなく昔の彼らを探してしまう。もういるわけないのに

 あれは2000年くらいのことだったか。同じ詩集を持ち合って、初めて会う人たちと待ち合わせた。3人だけのプチ集団だねなんて言い合いながら、話せる場所を求めてなんとなく公園に向かった。わたしのほかの二人は、一人は女の子で、もう一人は男のひとだった。わたしが作っていったお弁当を三人で分け合って食べながら、ぽつりぽつりと話をした。わたしの好きな詩はこれだと言って示して、男のひとは僕はこれが好きですねと違う詩を選んで、そして女の子は黙っていた。女の子にわたしだけ住所と名前を聞かれたので紙に書いた。そのあとお茶を近くの展望レストランで飲んで、女の子の話を聞いた。詳しくは語られなかったけれど、重苦しい話だったように思う。わたしの話もした。女の子はわたしの言葉にとても反応して、深く共感していた。男の人はよくわからないというふうだったけれど、どうにか理解したいと思っているようだった。誠実なものを感じた。ただ一人だけが蚊帳の外という状況が嫌だったのかもしれないけれど。これがあれらの日々の原点だったと思うと不思議な気持ちになる。

 

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少し前に見た夢に彼が出てきたから、これは何かの前触れかなと思っていた。それかただ単にわたしがこのひとのことを気にかけているからか。

 久しぶりにナウシカレクイエムの着メロが聞こえたと思ったら、教え子だった彼からだった。元気ですかって変わらないとぼけた調子で言うものだから、夏以来途切れていたことなんて忘れるくらいにあっけらかんと話していた。先生はひとを緊張させないとかつて彼は言っていたけれど、このひとこそひとを緊張させない。ゆるいとも違う、なんというか慣れ親しんだ安心感がある。まさに勝手知ったる部屋という感じだ。仕事はどう?忙しい?って、挨拶代わりに聞いて、いやもう大変ですよと言われ、最近はどうしてるかなんて逆に聞かれても、ほとんど変化なしだよと答えるしかない。流れで映画の話になったから、じゃあまた一緒に観に行こうかと約束する。先生に借ていた本を返さなきゃと言うから、ああ、あれね、読んだの?と一応確認で聞いたら、まあ、全部は読めなかったんですけどね。ってういう意味なのかと思いつつも、最後は読んだんでしょ?はい、という返事。わたしも、彼から借りた本はよく飛ばし読みするが、同じとをしているということか。と妙に納得した裏でいくらか寂しい気分になりながらも、じゃあ映画の時間調べとかなきゃね、いや僕が調べますよ、という話で終わった。到底趣味が合っているとは言えないのが悲しくもおかしくて、この関係もどこまで続くのかと他人事のように眺めてしまう。ただただ存在に感謝だ。

 

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ハナミズキが鈍く紅葉してきたと思ったら、いきなりの冬空。ゆっくり実りの秋を楽しみたかったのに、早くも炬燵の季節に。部屋でまったりと過ごすお供にとパッチワークとレース編みを始めることにした。針仕事は気の遠くなるほど久しぶりの再開で、レース編みはまったくの初めて。手芸屋さんで、きゃしゃで可愛らしい雰囲気の店員さんにいろいろを尋ねてみる。ぼやぼやしゃべりながらの布選びは何となく楽しかった。気づいたらかなりの額の買い物をしていた。値札くらい見ればよかった。

 

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やんちゃな男の子たちがやめてから、教室では女の子たちの勢力が強くなったように思う。はばをきかすというのとは違うけれど、なんというか強い光を放っているのだ。元々小学生くらいの年代では女子の方が相対的にしっかりしているというか、ませているというか、観察力が鋭いというか、とにかく周りがよく見えている。賢い女子は騒々しくふざける男子は相手にせず、できるだけ離れて座る。そうして我関せずといったふうで黙々と目の前の課題をやる。こころ優しい男子を見つけるのが上手で、気がつくといつのまにや親密に会話を交わす仲になっている。または、自分より格下に、いわゆる子分のように扱っていたりもする。

教室に長く通っていると、いろいろな勢力図が見えてくる。指導するこちらをたじたじとさせる子供にも遭遇する。苦手だなと思う子のタイプはやはりに似ている。周りに影響を及ぼすくらいの自我を持っている子。感情の起伏を隠そうとしない子。わがままにふるまうので一見強そうに見えるけれど、実は弱い子。同じ子を長く見ていると、知りたくない一面まで見えてしまって悲しくなることがある。子供のすることにいちいち失望しても仕方がないのだけれど。彼らはずっとそのままではないのだから。いつかは変わる。あの子は人間性がとてもいいよと、わたしがそう言ったら、その子はかなり自分を律せる人物なのだ。それもやわらかに軽々と。

 

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子供の頃はしたいことがあってもやるべき方法を知らなかった。伝えたいことがあっても伝える術を知らなかった。集団になじめないこと、特に仲間外れが何よりも怖かった。今ならわからないことならひとに聞いたり、自分で調べたりできる。言葉だっていくらかは選べる。思うままを口にしてひとを知らず知らずに傷つけることも避けられるようになった。ひとりがそんなに怖くなくなった。

 

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大人も子供もそうだけど、最初は暗めなくらいな方がいい。とっつきにくいとは違う意味で、無表情なのにひとに威圧感を与えない感じと言えばいいのだろうか。けして無愛想や不機嫌で黙っているのではなく、ただただ緊張していたりだとか、単に言うことがないからという理由の純粋な沈黙ならいい。それらを見分けるのはとても難しいけれど、こちらの話すことに耳を傾けているということがわかれば、それを示してくれる小さなしるしに気づけば、特に話は弾まなくてかまわない。わたしが話したことに、ほんの二言三言でいい。何かがかえってくれば。子供の場合なら、返事がかえってこなくても行動で示してくれればいい。文句や言い訳は聞きたくない。わたしは、言葉より行動を信じるタイプだ。笑顔より情緒の安定に価値を感じる。調子のいい時のとびきりの笑顔より、苦しい状況でのそのひとの振る舞いに重きを置く。逆境に動じないひとは、ひとにやさしい。孤独を知っているひとは、ひとのこころに寄り添うことができると思う。

 

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その犬は人間ができているというか犬ができているといった顔をしていますね。そう言われて、犬も持っている性格や気質みたいなものが顔に表れるのかと微笑ましい気持ちになる。そりゃそうでしょう、わたしを見ながら育ったんですから、とこころの中でひっそりと自慢に思う。そのひとが連れているいかにも機敏そうな足の長いスタイルのいい犬を見て、ずんぐりしたやけに顔の大きい我が飼い犬に目を移す。ちょっと鈍いんですけどねと言葉にして、ただ鈍いふりをしているだけなのかもと思ったりもして、何でもわかっているというふうな顔で静かにたたずむ犬をいとおしいような気持ちで見る。 

 


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こころが静かになった時だけここに何かを書こう。そう決めてしまえばいい。何事にもルールは必要で、だからこそわたしは日々を動かしていけると思う。朝は二度寝はしない。一度ベッドの中から出たら、その日は夜になるまでそこには戻らない。そうしてわたしは一日を始めないといけない。犬の散歩は午前中、それも9時あたりを目安にその日の天候や気温によって判断する。 からだを温めないことには今日一日をやり終える覚悟ができない。一日をやり過ごす。繰返しをまた繰り返す。大袈裟に言ってしまえばきっとそういうことだ。

元気でやっていますか、と語りかけたいひとがいる。実際には言葉をかけることはしないのだけれど、日々遠くで過ごすそのひとのことを思うだけで、自然と思ってしまうだけで、いくらかやさしい気持ちになる。やさしい気持ちになれると楽になれる。やわらかでいたい。頑固に傾いてしまうこころの根っこをほぐしたい。

 

 

 

 

*お知らせ

こんにちは。またここで書き始めます。今までやっていた「アイボリー」の続きです。 やはりこのスタイルが好きなので、前と変わらない感じで書いていこうと思います

 mll@moon.co.jp

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